International Women's Club Japan (IWCJ)代表理事の竹村真紀子さんとは、Global Moms Network (GMN)を介して何度かお目にかかっているが、彼女は心から尊敬する、大好きな女性の一人。その真紀子さんが、Facebookにこんなことを書かれていた。(以下抜粋)
『私は財団で「世界のどこにいても自分の力を発揮して、力強く生きる子どもを育てたい」という理念を掲げていますが、その中でも強い想いを持っているのが「その場、その場で自分が何をすべきか、何ができるか、どう貢献するべきかを考えて実行する力を持つ」ことです。 高校留学のコーディネーターをしていた頃、数えきれないほど多くの親子を面接しました。 保護者面接で「どのようなお子さんになってほしいと思いますか?」と聞くとおよそ80%の人が「人に迷惑をかけない人になってほしい」と答えました。 正直その言葉にとても違和感を感じました。 私は息子に「人を助け、人の役にたつ子になってほしい」と思い、名前をつけました。今、その息子が中学生になり、公教育を受けています。日本の教育をみていて絶対的に足りないと思う事が「その場に「貢献」する意識を育むこと」です。 「貢献」というとお金などおおげさなことをイメージしがちですが、「その場の雰囲気をよくするために明るくいる」「話す人が話易いようにしっかりと聞く」「みんなが疑問に思っていることをまとめる」「みんなが楽しめるように環境を整える」そんなことでも「貢献している」と言えます。 家族の中では家族としての貢献、クラスの中ではクラス、友人達の中で、その時々の場所で自分がどう貢献するか。それはいきなり身に付く事ではなく、日々の小さなことの積み重ねです。 <中略> 日本の教育の中では子どもたちの力を過小評価しすぎだと感じます。 <中略> もっと子どもの力を信じて任せ、頼るべきだと思います。その経験値が子どもの可能性を拡げます。 子どもが「やる気」になっている時に機会を奪っておいて、大人になってからいきなり「貢献せよ」と言われてもできる訳がありません。 「貢献する」意識を当たり前に日々生活していると、自分が何に関して「貢献」できるのか、自分の「強み」は何かを自然と認識するようになります。そして大きくなってミーティングやイベント企画等少し複雑な内容になった時にも「自分は今、何をするべきか。何があれば実行できるか」という意識から入り、実現していくことができます。 これはグローバル、ローカル関係ありません。人として生きて行く以上大切なことだと思います。その意識を育む環境を作り続ける事。それが財団のミッションと思っています。』 (全文はGMNのページで読める。) これ、私も常々考えていたことなので、真紀子さんが同じことを思い、言葉にしてくださって嬉しい。 日本では、人(特に知らない人、世間一般)に貢献するという意識が乏しく、それをとても残念だと思ってきた。そして真紀子さんの文章を読んで、なるほど、それは「人に迷惑をかけない」ことに重点を置いているからなのか、と腑に落ちた。 私は「人に迷惑をかけない人間を育てたい」と思ったことはない。なぜって、そんなこと不可能だから。人間は存在しているだけで、必然的に迷惑なのだ。赤ん坊は泣くし、子供は手がかかるし、大人だって、ただ生きているだけで、資源を消費し、環境を汚し、失敗を繰り返して、死ぬまでひたすら周りに迷惑をかけ続けるのだ。それが人間なので、「人に迷惑をかけない」なんてことを子育ての目標にしたら、まったくもって不毛。いかに人に迷惑をかけずに生きるかに神経をすり減らすのではなく、いかに人の役に立てるかを考えた方がはるかに建設的だ。人に迷惑をかけられることは、喜びであるべきなのだ。 日本の子供たちは、小さいうちからいろんな仕事をさせられる。 たとえば、小学校では、子供達が交代で給食当番をしたり、教室やトイレ、玄関などの清掃をするのは当たり前のことだ。一方、英米では、こうした任務を子供に与えている学校は見た事がなく、もっと日本の学校を見習うべきと思ってきた。しかし、清掃や給食当番は、自主的な「貢献」とは違い、あくまでも「自分のことは自分でする」、「与えられた任務をきちんと全うする」、「人に迷惑をかけない」ための訓練なのだ。それはそれで大切なことだが、日本の教育に完全に欠けているのは、他者に貢献することだ。 アメリカの学校は、日本の小学校に比べると本当にダメな点も多いが、一つ感心するのは、まさにボランティアリズムを小さいうちから育成する点である。 小学校低学年から、チャリティ活動に参加するのは当たり前だ。6、7歳の子供に何ができるかと思われるかもしれないが、よくあるのは、たとえば数キロの「チャリティ・ウォーク(ラン)」。子供は、レースに出場する前に、周りの大人に「完走したら、Xドル寄付する」という誓約をしてもらう。親はもちろん、親戚、ご近所、その他の知り合いに広く声をかけて、できるだけたくさん誓約を集め、レース完走後に、それを目的のチャリティに寄付するという仕組み。これ以外に、ベークセールや、不用品の回収・リサイクル、病気の子供達への髪の毛の寄付、オークションなど、さまざまな貢献方法がある。 中学、高校になればもっと社会貢献の幅は広がり、コミュニティ・サービスは、子供達にとって完全に当たり前のことになってくる。働く場も、地域の老人ホームや保育園、動物愛護団体や環境保護団体、ホームレスシェルター、フードバンク(低所得者に食糧を提供する施設)、公園、病院など、実に多様だ。たとえば、高校一年生の息子は、この夏、低所得層の子供達に算数を教えるボランティアに申し込んでいる。州や市によって規定が異なるが、高校では何十時間かのコミュニティ・サービスをすることが、卒業の条件になっていることが多い。さらに、大学に願書を出す際、一切社会奉仕活動を行っていなければ、マイナス要因になることはほぼ確実だ。勉強ができる子はたくさんいるが、勉強以外に何をやってきたのか、どんなことに貢献してきたのかが、大学進学の際に重要なポイントになるということだ。 真紀子さんが言うように、子供のうちから、人のために働くことが当たり前でないと、大人になってから、自然に動けるはずがない。 日米両方の親たちの様子を見れば、それは一目瞭然である。 たとえば、子供のクラスで役員を決めるとき、誰も立候補せず、全員目を伏せて沈黙という光景、日本ではかなり一般的だと聞く。最終的にはくじ引きやジャンケンで役員を決めて、当たった人は仕方なく引き受ける。嫌々引き受けた後は、最低限の仕事をするだけで、必要以上の努力はしない。学校の仕事は、まるで罰ゲームのような感覚だろうか。 対して、私は二人の子供をNYで育ててきた中で、一度もクラス役員になれたことがない。 家で仕事をしているため、オフィス勤務の方々よりも時間に融通がきく分、たまには貢献しないと悪いと思って、何度か「クラス・ペアレント」(役員)に手を挙げたことがあるが、だいたいその前にすでに立候補者が何人もいて、私は毎度あぶれる。役員になるのは、大抵フルタイムで仕事をされているお母さん方だ。 役員以外にも、イベントの準備・片付けやら、資金集めやら、先生方への謝恩ランチョンやら、親のボランティアの募集がある度、大勢の方が自発的に時間と労力を提供する。それは、コミュニティの一員として、当たり前のことという認識なのだ。このメンタリティは、小さいうちから培われたものに違いなく、日本でも、もっと当然のこととして、人に奉仕するという教育をすべきだと、強く思ってきた。 日本人は、与えられた任務を完璧に、効率良くやり遂げることに関しては、他の追随を許さない。(毎年娘の学校で開催される、「インターナショナル・ナイト」というイベントの、日本テーブルを見ても明らか。)知らない人のために働くことが、「人に迷惑をかけられること」ではなく、コミュニティの一員として当然のことであり、かつ自分の喜びであるという意識を持ったら、日本はもっと良い国になると思う。 Ask not what your country can do for you, ask what you can do for your country. - JFK
by oktak
| 2015-05-29 00:55
| 日常
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