先日、ベルギーのブルカ禁止法案について書いたところ、以下のようなコメントをメールでいただいた。
「お気持ちは分かりますが、声高に『自由』を叫ぶ人々は、『自由』と『我侭』を混同してはいませんか? すべての人が好き勝手に振舞うことが『自由』であれば、社会は完全な混乱状態に陥り、人と人との衝突は避けられません。 この場合、ブルカ着用がベルギー社会の多くの人に不快感や恐怖をもたらしていることが明らかなのですから、イスラム教徒の女性たちは、社会の調和のために妥協をすべきではないでしょうか?なにも信仰を捨てろとか、ベルギー人に同化しろと言っているわけではないのですし。お互いに礼節をもって歩み寄らなければ、対立はなくならないのではないでしょうか?」 このようなご意見をいただいて、嬉しい。 しかしながら、私の意見は変わらない。 他者と共存していく上で、相手を思いやる気持ちはもちろん重要だ。各自が他者の迷惑を顧みずに自我を通していたら、平和的共存などできるはずがない。てんでばらばらの価値観・風習・信仰を持つ人間が、なんとか同じ場所で暮らしていくためには、ある程度の妥協・自己抑制が必要なのは言うまでもない。社会のすべての構成員が、他者を思いやって行動を自制し、対立を回避できたらなんの苦労もないのだが、それができないから太古の昔から法律が存在したのだろう。 が同時に、人の行動を規制する際には、厳しい基準がなければならない。 人命を奪ったり、健康を損なわせたり、公共や個人の財産を破壊するなど、実質的被害をもたらす危険性がある行動は、当然ながら規制対象たるべきだが、「社会のマジョリティが怖いと思うから」という理由で、平和的行動・慣習を禁ずることに、私は断じて反対である。 「多くの人が怖い(あるいは不快)と思うから」ということが、行動規制の理由としてまかり通ったら、「互いを思いやる気持ちが必要」という本来のスタンスとは裏腹に、実際にはマジョリティが一方的にマイノリティに譲歩を迫ったことにはならないだろうか?ブルカ着用を禁ずることで、マジョリティは一体どんな「歩み寄り」を見せたのか?結局は、力のある者が我を通しただけなのでは? また、不快感や恐怖が行動規制の根拠として認められるなら、ブルカの着用禁止に始まって、モスクの建設禁止、イスラム教教育の禁止と、イスラム教徒へのプレッシャーがエスカレートしないと誰が言える? 仮にそれは行きすぎだと言う人がいたら、ではなぜブルカ着用の禁止はよくて、モスク建設禁止は悪いのか、と聞きたい。すなわち、規制の基準は何なのかと。どちらも、他者を傷つける行為ではない。 社会の調和は重要だ。そもそも、人といがみ合いながら暮らしたいと願う人などいないだろう。 が、人の権利を制限する場合には、厳密な基準が必要だ。 他人の行動が気に入らないことは、日常的に山のようにある。 でも、気に入らないからといってやめさせるのは、まさにエゴだ。 真の思いやりを説くなら、「相手が不快に思うから、行動を自粛しましょう」と言うのではなく、こう言うべきなのではないか。 "I disapprove of what you say, but I will defend to the death your right to say it." - Evelyn Beatrice Hall (あなたの意見には反対だ。でも、それを主張するあなたの権利は、命をかけて守る。)
by oktak
| 2010-07-14 01:11
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