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"Pioneer Day"

Facebookで、イリノイ州に住むアメリカ人の知人が、こんなことを問いかけていた。
「多くの小学校が、Pioneer Day(開拓者の日)やColonial Day(植民地時代の日)という日を設け、子供達に開拓者時代の服装をさせて、当時の食べ物を食べるなど、その時代の暮らしについて学ぶ機会を与えていると思います。娘の学校では、この日に、女子は『開拓者の少女の服装』を、男子は『開拓者の少年の服装』をするよう、指示がありましたが、どう思いますか?」

「性別に応じて、特定の服装をしなければならない」と学校側が指示したことに対し、ジェンダーの観点から問題意識を持ったわけである。これに対して多数の意見が寄せられていたが、「歴史の授業である限り、時代を正確に再現することに意味があるので、問題ない」という人もいれば、「ジェンダーを基準に、決まった服装を強要するのは問題」という人もいた。

投稿した知人の娘さんは、普段からスカートを履くのが嫌いで、ドレスにボンネットという服装を強要されることを、涙を流して嫌がっているのだとか。

私が驚いたのは、「開拓者の日」について、知人がもっとも問題だと思ったのが、ジェンダーによる特定の服装の強要であったこと。
「開拓者の日」を設け、その時代の生活を再現し、記念すること自体に違和感はないのだろうか?
開拓者が先住民の土地を侵略し、彼らを不毛の地に追いやった歴史は都合よく軽視し、この時代へのロマンチシズムに浸る傾向の方が、私ははるかに気になる。
知人が住んでいる地域の人口構成は知らないが、マイノリティが皆無だとは想像できない。スカートを履くのを嫌がる少女の気持ちを汲むことも大切だが、先住民の血を引く子に開拓者の格好をさせることには問題はないのか。また、子供の人種や国籍に関係なく、開拓者時代の服装を再現することの意味は?この時代を肯定的に捉えていなければ(ノスタルジアさえあるかもしれない)、衣装を着てこさせるようなことはないのでは?

そんなことを思っていたら、コメント欄に、自分と同じような考えを持っている人を発見。
「開拓者がこの国でどんなことをしたか、覚えている人はいないのか?先住民を虐殺した開拓者の服装を、学校が子供に強要すること自体に困惑する。学区内に非白人の子供達がいるとしたら、ジェンダー以外の観点からもこの問題を議論せざるを得ないはずだが、実際にそのような議論が起こることはないだろう。こうしたイベントを無害で取るに足らないものだと思えるのは、特権階級から見た場合のみなのだ。」

そう。歴史の一幕の再現を無害と思えるとしたら、それはその一幕で傷つかなかった立場にあるから。
綿花プランテーションの様子を再現しようとする学校がないのは、人を虐待・搾取・虐殺した側に、激しい罪悪感と羞恥心があるから。コロンブス・デーが祝われ、学校で「開拓者の日」があるのは、先住民を抹殺したことに対する、歴史的認識が甘いから。

ちなみに、ありとあらゆる人間が住んでいるここニューヨーク市の公立校では、「開拓者の日」のようなイベントはない。
それどころか、子供達は一度も学校で国家斉唱、(国旗に対する)忠誠の誓いをしたことがない。
もし娘が小学校で、「パイオニア・ガール」の格好をしてこいと言われたら、私はやっぱり違和感を覚える。娘が着たいと言えば阻止はしないが、学校で教える歴史が、白人開拓者の視点から見た"his story"であることは、指摘せざるをえない。
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by oktak | 2015-04-28 23:16 | 日常 | Comments(2)
Commented by masako_texas at 2015-04-29 14:00
oktakさん
こんにちは。
娘の行っていた小学校は、コロニアルデーには、時代の格好をして、その時代のご飯を食べるというお題の日でした。
私たちは、限られた期間を過ごす駐在員の家族で、そのエリアが白人85パーセントかつ在外公館職員の家族の住むエリアの公立校という事もあり、楽しんでいました。
日本の公立校で、縄文人の生活をするくらいの気軽な気持ちで参加していました。
滞在期間も限られているので、みんながどういう育ち方をしているのかを知るというのも一つのお題でしたので気に掛けなかったのですが、帰国してから毎日国旗を揚げて、国歌を歌い、宣誓をして、更に州に対しても宣誓をしてというかなり地域性の高いエリアであったと後から思い返すと考えてしまう事も多いです。
僅かな、違う民族の人は、思い切り関係ない格好をして登校していましたが、誰も咎めることはありませんでしたが、マイノリティーであることを感じずにはいられない日でもありました。あ、テキサス州です。(笑)らしいでしょう。

私の子供は、日本人の子供ですから、その文化を知る機会として楽しむと教えているので心に傷を負う事はありませんでしたが…
時々、担任の先生が私たちを刺激をするといけないので、そういう行事がある旨先にお知らせをくださったことが、多少の配慮かと思いました。

配慮には感謝しつつ、違わう事を学ばせるのでと、様々先生とコンタクトを取り日本での行事について、時々お時間をもらっていました。確かほかの国の行事についてもあったかと思います。この学校が在外公館の職員家族のいたエリアだったからの特殊な事だったのだと思います。
PATの方々も、先生も実際の心はともかく表面上は、そういう差異をみんな知りましょうと言う調子でした。

読ませていただき、NY市は、全く違う事が興味深いなと思いました。
記事を見てその時はあまり考えなかった、先生方の気遣いの理由が見えるように思われました。

Commented by oktak at 2015-04-29 20:36
masakoさん、いつもご丁寧なコメントありがとうございます。masakoさんのお子さんが通われていた学校は、ずいぶん配慮の行き届いた学校だったんですね。知人の学校の場合、最大の問題は、「強要」にあると思います。知人の娘さんはtomboyなので、スカートが履きたくない、そこで知人が「開拓者時代の少年の格好をさせてもよいか」と先生に聞いたところ、ダメだと言われたそうです。でも仮に、「着たい人は着る、着たくない人は着ない」という自由なポリシーであったとしても、植民地時代をcelebrateすることの背景にある一面的な歴史観と、このようなイベントによって疎外される生徒がいることに疑問を感じます。
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